光を見るためには目があり、音を聞くためには耳があるのとおなじに、人間には時間を感じとるために心というものがある。そして、もしその心が時間を感じとらないようなときには、その時間はないもおなじだ。
ミヒャエル・エンデ「モモ」(大島かおり訳)
さくらの園庭に行くと、時間の流れがゆっくりだなと感じます。直前まであくせくと時間に追われていても、さくらの園庭に行くとふっと心が軽くなることがあります。水田と桜と花々に囲まれた、ある種の桃源郷のような雰囲気の中、のびのびと幼年時代を過ごす子どもを、私は幸せだなと思います。
園の参観に参加して気づいたのですが、さくらの子ども達は皆どこか「モモ」のような雰囲気を漂わせているように私には見えます。
ミヒャエル・エンデの小説の主人公「モモ」は、何か特別に学問や芸術に秀でているわけでも、まして特殊な魔法が使えたりするわけでもありません。しかし、あいての話をほんとうに聞くことができるという、簡単そうで極めて難しい、稀有な能力を持った子ども。時間泥棒に奪われた、人間たちの時間を取り戻します。
さくらの子どもたちが遊びながら話をしている時、年長の子も年少の子も、友達のゆっくりした話を意外な辛抱強さで聞くので、話している子の意志がだんだんとはっきりしていくのを何度か見掛けました。
同じように、園の活動に協力してくださる近所の方が園庭を訪れて子どもたちに話しかける際も、子どもたちは同じように聞きます。特に気の利いた返答があるわけではありません。でも、あいてをじっと見つめて、よく聞くのです。
さくらの園庭も、特に珍しい設備があるわけでも、目を見張るような知育玩具があるわけでもありません。でも、近所の方や保護者がとてもよく集まります。皆で園庭の草をとったり、小さな畑を耕したり、園の行事を手伝ったり。
かくいう私は、さくらの保護者の中で行事への参加率・貢献度共に最も低い体たらくですが、何度か参加した園の行事はどれも、子どもたちの見せる些細な仕草が深く印象に残っています。
園長先生をはじめとする先生方のご尽力はもちろん、教育内容も素晴らしいからだ思いますが、まわりの大人たちもまた、それぞれに忙しい中、さくらの魅力に惹きつけられて集まっているように私は感じます。
「モモ」たちに会いに。そしてそれを育む教育の手助けに。